清濁併せ吞むという言い方がある。広辞苑には「善・悪のわけへだてをせず、来るがままに受け容れること。度量のおおきいことにいう」とある。大海が清流も濁流も隔てなく受け容れることからの喩えである。
理想論や綺麗事だけで済ますことが出来るならそれに越したことはないが、そんな現実はどこにもない。グレーなものやダークなものや醜悪なものさえ存在するのが現実だ。
かつて経験したことのない 3.11大震災が起こった時の報道は実に奇怪なものだった。テレビは自粛と称して各局とも公共広告を流しっぱなしで、現地の本当の悲惨な状況は伝えない。4月早々にやっと深夜バスが仙台まで行くようになってすぐに現地を訪問した時、現場を見た時のメディアからは伝わってこない喪失感は今でも鮮明だ。あちこちではまだ遺体の捜索が行われていた。その時ガイドに雇ったタクシードライバーがぽつりと言った。「テレビじゃ臭いまで伝わらないよな」
子供の頃、「職業に貴賎なし」と教えられた。どんな仕事でも社会には必要だし労働は等しく尊いということを教えられたのだ。確かに真理ではあるが、現実の世界はそうはいかない。正社員と契約社員とアルバイトでは労働環境も報酬も違う。貴賎のないという職業にさえ就けない人達もいる。その結果として職業に貴賎がなくとも生活は明らかに貴賎を作っている。そういう現実を見て見ぬ振りや話題を避けていても何も良くならない。
世界にはBOP(Bottom of Pyramid)と呼ばれる貧困層がいる。アジアに出かけ、少し中心地から離れた田舎に行けば貧しさも衛生環境も 60年前の日本の田舎のような生活に触れることができる。経済ばかりを追求している資本主義社会では、この貧困層の存在を前提に社会が成り立っている。
会社の中でも醜い覇権争いがあるし、パワハラ、セクハラに限らずいろいろなハラスメントも存在する。社内通報制度に則って告発した社員が理不尽な人事で報復を受けることも現実にはある。これらは企業文化や経営者の人格に大いに影響を受けるが、組織とはそのような濁の部分を生みやすい。
しかし濁を隠す、見ない、感覚だけで理解するようなことが当たり前のように起こっているのはどうしてなのか?政策に都合の悪いことを隠そうとするのはどうしてか?見たくないという気持ちはわからないでもない。精神的なダメージも少なからず受ける。保身機能が働くのかもしれない。
敢えてその現実を直視し、現実を現実として受け止め、理解し、望ましい方向に向けていくことが大切なのではないかと思う。そうしなければ望ましい社会にはならないように思う。それには現実を直視する目と心構えが必要だ。確かにそれは容易ではない。力がいる。真実を見て自分の軸を作ることが重要だ。
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