株式会社オラン(ORANG)

人と人、企業と企業をつなぐ


4月の初めの週末、東日本大震災の現場を訪れた。ちょうど4年前、震災発生から3週間ほどしてから初めて被災地に入った。深夜バスがようやく仙台まで運行するようになってすぐの頃である。早朝に仙台に着き、終日タクシーをチャーターし、名取地区から石巻近辺まで巡り、被災した恩師を訪ね、その日の深夜バスで戻ってきた強行軍だった。その時の被災現場の空気は今でも肌に染み込んでいる。まだ遺体捜索も続いたし、港に打ち上げられた魚の腐敗臭も立ち込めていた。木々に引っかかるように無数の乗用車やトラックが散乱している。住宅があったはずの沿岸部は荒涼とした視界が広がり、根刮ぎ引き抜かれた倒木や家財や生活道具などの瓦礫が散乱する様は、地獄図絵のようだった。

1年後も訪れた。瓦礫は集積されつつあったが、荒涼たる地平の広がりは震災直後と変わりはなかった。その後しばらく訪問の機会がなく、4年後の今年の訪問になった。今回の訪問目的は陸前高田で被災した自然農業を営む知人を訪ねることと、未訪問の大船渡や南三陸町などを回り復興の状況を自分の目で見てくることだった。

私の関心は、土木エンジニアとして地震や津波の計り知れないエネルギーと影響度を肌で感じ、自然への畏敬と科学への過信を感じ取ることである。4年を経た現場は、瓦礫こそ片付いたものの不毛たる土地の広がりには大きな変化はない。それは未だ(2015年3月)に22万9,000人の避難生活者がいる事でもわかる。この1年間での避難生活者の減少は3万5,000人に過ぎない。
blg-untitled-1変わったことといえば、あちらこちらで3m〜4mくらいの土地の嵩上げをする土工事が行われていることである。街道は関東や北海道からも集められたダンプトラックが列をなし、市外や近郊のいたるところが工事現場になっていた。これらの工事は人口が急速に減り、高齢化も進んでいく日本の地方都市の姿を描きながら進められているのだろうか?地域の新しいデザインで町つくりをしているのだろうか?施策や行政のむずかしさを感じつつも、私の目には元に戻すことに必死であるだけにしか映らなかった。

違っていたのは、土地の人々が悲しみや失望感や無力感から立ち直り、気持ちの復興が進んでいることだった。人々のレジリエンスである。陸前高田の知人も浸水した田畠を回復し流失してしまった自宅を高台に再建し、自然農業の復活へ向けて活動していたし、沿岸部の魚市場も機能復旧して三陸の海の幸を流通チェーンに載せていた。南三陸では街なかから少し離れたところに「さんさん商店街」という仮設の商店街を設けていて、食料品店や床屋や整骨院や写真館などが軒を連ねていた。

完全復興までの道のりは長そうだけれど、リデザインさらた地域と一人でも多くの避難生活から落ち着いたストレスのない生活に戻れることを祈るばかりであった。

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